デリカ & キッチン HANA

ストーリー


奈良で麹(糀)を使った発酵料理教室と

子供クッキング教室を開催しています

【デリカ&キッチンHANA】の桃沢華七です。

・子供クッキング教室 10年目 年間 生徒数 約390名

・麹の発酵料理教室 8年目 年間 生徒数 約320名

・これまでレッスンしたレシピ 約500品以上

 

 

今では好きな料理を仕事にできて、とっても充実した日々を送っていますが、

これまでの長い人生、結構な波乱万丈な人生を歩んできました。

 

 

今日は私のストーリーをお話しようと思います。

 

母の商売が大ヒット! 裕福な子供時代

両親と妹の4人家族で、父は電気工事士として、小さな有限会社を設立してました。

父が社長で、家の応接室が事務所でした。

 

私が小学校に入学する前の春休みに、新築で家を購入し、その家の一角に店舗を構えて、母が商売を始めました。

その商売とは、たばこ屋とヤマザキパン

当時、手作りのパンやさんはあまりなかった時代。

ヤマザキパン めちゃくちゃ売れてました!

 

私が住んでた地域は新しくできた新興住宅地で、どんどん家が建っていき、住民がたくさんいてました。

 

朝、近所の人たちが、パンを買いに来るのです。

毎日毎日、大行列なんです!

ヤマザキの菓子パンをケーキのようにショーケースに並べて売っていました。

クリームパン、あんパン、ジャムパン、メロンパン

朝だけで、飛ぶように売れていきました。

今では考えられない光景です。

 

そして、食パンは母が毎日早朝から機械でスライスして、1斤ずつ手作業で袋詰めしてました。

私は、あの専用の機械で食パンを切ってみたくて、みたくて

やっと小学5年生の時に母から許可が下りました。

ヘタしたら指なんか一瞬で飛んでしまうほどの高速回転です。

いつも緊張しながら切ってました。

一度、留守番してた時に、サンドイッチ用の18枚切りを2斤下さいって言われて

死ぬほど緊張しながら、めちゃくちゃ時間かかって袋詰めした記憶があります。

 

 

パンとたばこだけでなく、いろんなものを置いてました。

今でいうコンビニの走りのような店でした。

お菓子、ジュース、アイスクリーム、日用品や雑誌、卵の量り売りまでしてました。

店番も毎日のようにさせられてました。

 

母の商売も繁盛してたし、父の仕事も順調で

割と裕福な幼少期だったと思います。

 

ただ、父はギャンブル好きでした。

まだ幼稚園の頃に、父に連れられて競艇場に連れていかれたこともありました。

破り捨てられたはずれ券が、そこらじゅうに散らばっていて、それが風で舞って雪のようにとってもきれいに見えた記憶が、かすかに残っています。

幼稚園児を競艇場に連れていく?

父は何を思って連れて行ったのでしょう

学生時代~いきなり貧乏のどん底に!

~そして人生最初の挫折

 

小・中学時代は、とても充実した楽しい時代でした。

小学校で大親友3人に出会ってます。

 

ただ、高校受験は、自分の意に反する高校へ入りました。

 

行きたかった公立の高校があったのですが、母に勧められた女子高に入りました。

 

その当時は、あまり自分の意見を言える子ではなく、母のいいなりでした。

 

入った高校はレベルが思ってた以上に低く、いきなりクラスのトップの成績を取ってしまい、

やっぱりあの公立校に行きたかった。頑張って受験すればよかったと後悔しました。

 

きっと母は女子高の制服を私に着せたかったんだろう

制服がかわいくて有名な高校でしたから

 

 

そして、高校2年になったころから、少し風向きが変わってきました。

 

父と母が離婚したのです。

 

 

あんなに流行っていた店、家を売って、もっと大きな家に住むからと一旦、賃貸のマンションに引っ越ししてました。私が中学2年の時でした。

 

4LDK、庭付きのマンションで、当時はプロ野球選手も住んでいるような高級マンションでした。

 

 

ギャンブル好きの父は、母の商売のお金を当てにしてよくギャンブルをしていたそうです。

 

お金がなくなると母の着物や宝石を勝手に質屋に持って行って、お金に換えてまたギャンブルをする。

きっとギャンブル依存症だったのでしょう

 

私のアルバイトのお金も盗まれたことがあります。

忘れもしない!

高校1年の年末5日間、路上でしめ縄売りをして得た3万円

当時高校生の時給が450円~500円の時代

高校1年でもらった3万円は、とてつもない大金でした。

部屋に大事に隠してたのに、いつの間にかなくなってて、

父に問い詰めると、悪びれた様子もなくそのうち返すからと

この時、父のことを心底軽蔑しました。

 

お金にルーズで、ギャンブル好きの父

私は小さい頃から、尊敬もできず、どうしても好きになれませんでした。

 

そして、あげくのはては、自分の社員の給料のお金を全部ギャンブルにつぎ込んで、給料を払えなくなり、(一応まだ社長の身)

どこかに雲隠れしてしまい、大騒動になったことも

町のサラ金からも催促の電話はかかってくるし、

このまま一緒にいたら、殺されると母は離婚を決意したそうです。

でも結局最後まで、母は父の面倒を見てました。

 

そして、裕福な生活から一転、貧乏生活に

4LDK庭付きから、2DKの狭い部屋に母と私と妹と猫4匹で暮らすことになりました。

 

離婚してからは、母は仕事を掛け持ちしながら働いてましたが、

生活に苦しいはずなのに、なぜか妹も私と同じ女子高に通うことになって

2人分の私立の授業料を払うのが大変でした。

 

学校の終礼のあとに、よく職員室に呼び出されるようになりました。

言われることはいつも一緒

「来週中までに授業料が振り込まれなければもう学校に来れなくなるから、親御さん言っておきなさい」

 

高校の担任の先生、嫌いでした。すごく冷たかった。

でも最悪な事に3年間も一緒でした。

 

 

そして、高校3年の進路を決める時期、

もちろん今の貧乏生活では、大学なんて無理

就職しようと思いました。

 

その当時は、高卒でも有名な上場企業からたくさん学校に推薦が来てました。

 

私は成績も良かったので、選び放題

特に有名な家電メーカーを受験することにしました。

 

簡単な一般常識と面接

 

同じ高校から私ともう一人、違うクラスの子と2人で受験しました。

 

でも採用されるのは、1人だけ

 

 

結果、私は不採用でした。

 

一緒に受けたその子は、親戚のコネがあったらしく、最初からその子が受かるのが確定してたみたいです。

 

なんか、私バカみたい。

 

そんな失意の中で、その後も2社受けましたがいずれも不採用

 

面接で、毎回聞かれるんです。

「お父さんはどんなお仕事をしてますか?」

 

何か不利になりそうで、離婚してたけど、保護者の欄には父の名前を書いてました。

 

その頃、父は胃がんを患ってました。

末期のがんでした。

なので、もちろん無職です。

生活保護を受けて、6畳一間の風呂なし、トイレは共有のおんぼろアパートに住んでました。

 

家族を不幸にした行く末がこれです。

私はざまあみろと思いました。

 

面接では

「父の仕事は電気工事士です。」と言ってました。

本当の事なんか絶対に言えません。

 

何で、父親の仕事のことを聞くの?

不採用になったのも父のせいだと恨んでました。

 

離婚してからも時々母にお金の無心に来てました。

家の電話にサラ金業者から電話がかかってきた時のこと

私が電話に出て「父はいません」というと

「声が聞こえとるやないか!はよだせや!」

とすごい剣幕で怒鳴られて、「これはテレビの声です」と言って電話を切ったんですが、

そのあと震えが止まりませんでした。まるでドラマのシーンの様でした。

 

本当に父のせいで何もかも最悪な事ばかりでした。

結局、就職も決まらず、どんどん受けれる会社も減ってきて、

そんな時、見かねた母が「もう短大に行き」と言ってくれました。

 

今の貧乏生活で、短大の授業料が払っていけるの?

母は、何とかするからと言ってくれ、私はその言葉に甘えることにしました。

もちろん私も、バイト代から生活費を渡してました。

 

今でも時々、母は「あの当時どうやってお金工面してたんやろな」と言ってます。

 

 

料理に目覚める

高校2年の時にあるお蕎麦屋さんでアルバイト始めました。

 

ホールの仕事だけだと思っていたけど、時には料理の仕込みも手伝わされたりしてました。

 

初めて、ネギを切るように店長から言われた時

 

これまで、包丁なんか持ったことがなく、料理も目玉焼きが作れる程度で

全く料理に興味がなかったんです。

 

初めて持つ包丁で、おぼつかない手つきでネギを切ってた私を見て店長は

「お前、女のくせにネギも切ったことがないんか!」と言って怒鳴られました。

 

屈辱でした。

 

ネギぐらい・・

ネギぐらい切れるようになったるわ!

 

そう決心した私は、それから毎日家でネギを切るために台所に立つようになりました。

あの店長の一言が、料理に目覚めさせるきっかけとなりました。

 

 

それに離婚後、母は毎日夜遅くまで働いていたので、バイトのない時は私が晩ご飯を作ってあげようと思いたち、

 

たまたま、家にあった料理本(たぶん母の嫁入り道具の一つ)を見ながら本に書いてある通りに作るようになりました。

 

その本は家庭料理の基本のおかずが載っていて、1品1品制覇していくのが楽しくて、そして作った料理を美味しいと言って食べてくれるのが嬉しくて、どんどん料理が好きになっていきました。

 

そんな時です。

短大進学しようと思ったのは

 

なので、必然的に料理関係の学部を希望しました。

 

せっかく短大に行かせてくれるのだから、資格の取れる学部がいいと思い

「栄養士」のコースを選択することにしました。

 

家から通える範囲で、出来るだけ学費の安い所

条件に合ったのが、神戸の短大でした。

片道2時間かかりましたが

 

就職試験と違って、短大の受験は難なく一発合格

 

短大生活は忙しく、毎日授業も有り、バイトもして充実した2年間を過ごしました。

 

もちろん、料理にもますますハマっていきました。

 

 

短大卒業と同時に栄養士の資格は取れるけど、栄養士として就職する子は、当時ほとんどいてなくて、クラスの1割ほどでした。

 

みんな、一般企業で一般事務を希望

俗にいうOLですね

 

そして、社内恋愛して、25歳までに結婚するのがステータスみたいな世の中でした。

 

私も大学からの推薦で地元の企業を受けました。

 

また、高校の時のように面接で父のことを聞かれるのかな

もう保護者欄には父の名前は書いてなかったので、今度は「もう亡くなりました」と言おうと思ってたけど

父のことは何も聞かれませんでした。

 

そして、あっけなく採用

 

短大は遠かったので、この会社は、片道30分あれば余裕で通える所に魅力を感じてここに決めました。

 

 

華のOL時代~バブル絶頂期

地元の企業とはいえ、一部上場企業で、同期入社が80名もいてました。

 

配属先は営業部

 

営業事務として働きました。

 

部署の人たちもみんないい人ばかり、先輩、後輩にも恵まれ

同期もとても仲が良く、

 

また社外にもたくさんの友達が出来て、

大好きな彼氏もいて

その彼氏にもいつも料理を作ってあげてました。

 

これまでの人生で一番と言っていいほど充実した楽しい時期でした。

そう、世の中もちょうどバブルが始まりだそうという頃で景気も良かったです。

 

でも、その大好きな彼氏と、付き合って3年が過ぎたころ、

なんだかぎくしゃくしてきて、結局別れることに

 

私の人生設計では、その彼氏と24歳で結婚して、仕事を辞めるつもりでしたが

 

ここで振り出しに戻ってしまったんです。

 

 

今の職場や仕事には何の不自由もないけど、ここで一度リセットしたくなり、

会社を辞めて、何か新しいことを始めようと思いました。

 

まず、私の好きな事は何かと考えた時

・料理

・旅行

この2つが出てきました。

 

そして、資格取得のために学校へ行く

 

調理師か旅行関連の夜間の専門学校に絞りました。

 

資料を取り寄せてみると、調理師の専門学校は高い!

今の給料では到底無理だとわかり、調理師はあきらめることに

 

「旅行業務取扱管理者」という国家資格を取るための勉強を教えてくれる専門学校に行くことにしました。

旅行業務取扱管理者にも国内と一般の2種類があり、一般は海外旅行も関係してくるので、英語も必須で、試験の範囲も広く、学校も1年間通わなくてはいけない。

 

当時24歳の私には、少しでも早く再就職がしたかったので、半年で終わる国内旅行業務取扱管理者の方を選択しました。

 

というのも、この資格、元カレが、目指していた資格だったんです。

私にもやればできるってことを見せつけたかったのも一因でした。

 

それからは、昼間はOLして、夜は専門学校に通う日々

そこで知り合った人たちと、週末は図書館で一緒に勉強したり

これまでで一番勉強した時間だったかもしれません。

10月に試験を受けて、11月に合格、12月に退職

その間に、専門学校の方で、就職先も紹介してもらったりして、

翌3月にめでたく旅行会社に転職が決まりました。

 

 

そして、1月に父が亡くなりました。

50歳という若さでした。

 

亡くなる直前に、家の窓から誰かがこちらを見ているような気配を感じたんです。

はっきりと

その後すぐに、病院から危篤の電話がかかってきました。

 

きっと最後に会いに来たんだろうな

 

でもお葬式は涙も出ませんでした。自業自得だと思うような冷たい娘でした。

 

葬式の後は、親族一同から、どれだけ父に迷惑かけられたかという話をずっと聞かされました。

親戚にもお金を散々借りていたみたいです。

父は6人兄弟の末っ子で、一番最初に亡くなりました。

 

 

ここからが、私の第2の人生が始まりました。

転職した旅行会社は、航空会社の子会社で、一般のお役様相手ではなく、街の小さな旅行会社さんがお客様で、

飛行機とホテルをユニットにして旅行会社に卸す仕事をしてました。

まだ創立間もない会社で、社員みんな若くて、活気があり、とてもやりがいのある仕事でした。

まだまだ、私の華のOL時代は続きます。

 

時代はまさにバブルの絶頂期!

何でも許される時代

日本国中、いろんなところに行かせてもらい、いい思いをたくさんさせてもらいました。

旅行の道を選んで正解だったと思います。

 

そして私も28歳の時に結婚します。

当時は、25歳を過ぎると売れ残りなんてよく言われました。(クリスマスケーキをたとえにして)

出産も30歳を過ぎると高齢出産でした。

 

 

結婚しても、もちろん仕事は続けました。

3年は共働きで稼いでから子供を産もうと思ってたけど、結婚してすぐに妊娠

 

でも育児休暇を取って仕事はずっと続けたいと思っていました。

 

しかし!

育児休暇は前例がないという理由で、却下されてしまいます。

 

まだ新しい会社で、社員も20代ばっかりで、私が初めての育休申請でした。

 

でも前例がないって事だけで?

親会社は、れっきとした一流企業なのに?

 

なんとも納得がいかない理由でしたが、

結局、臨月まで働いて、退職することにしました。

 

 

主婦業・子育てに専念

~料理人としてデビュー

 

そこからは、主婦として、母親として子育てに追われる日々になります。

 

2人目の子も上の子と1年半しか離れずに生まれて、ほぼ年子のように

子育てに翻弄してました。

 

その頃は、社会に取り残されてるとか、仕事していた頃が恋しいとかという気持ちは一切なく、

逆に絶対に両立は無理だった、仕事辞めていて良かったって思っていました。

 

本当に子育てに全力投球の日々でした。

そして、上の子が幼稚園に入るタイミングで、新しく家を建てました。

自分たちで間取りも考えて建てた思い入れのある家です。

場所も車の入ってこない袋小路になっていて、まだまだ自然がたくさん残っている

子育てするには最高の環境の場所でした。

 

上の子が、小学入学と下の子が幼稚園入園が重なった時、初めて昼間に一人の時間が出来ました。

その頃の幼稚園は、週2回11時のお迎えで、週3回が14時のお迎えだったので、

ほんの束の間の自由でしたが、そこで、パートに出ることにしました。

 

近所のスーパーで、8時から10時までの2時間の早朝パートです。

選んだ部署は「総菜部」

 

ここから私の料理人としても仕事が始まりました。

 

スーパーの総菜でも珍しく、本格的な石窯でピザを焼く担当をいきなり任されました。

また天ぷらを揚げたり、フライをあげたり

特に天ぷらは、ここで働いたおかげで、得意料理になりました。

 

その後も、小学校の給食の調理員、高齢者施設での栄養士兼調理師として、

献立を考えたり、食材を発注したり、初めて栄養士として働くことが出来ました。

 

かれこれ10年くらい調理師として現場で鍛えてもらいました。

この経験も今の仕事のベースになっています。

 

その間に、調理師の免許も取得しました。

 

 

病気発症

パートの仕事を掛け持ちしながら、子育てに追われる毎日

子供達もそれぞれ、サッカーと新体操の競技に一生懸命取り組んでいました。

毎日の送迎、週末の試合の応援などもこなして、子供優先の日々

少しぐらいの体調の変化も忙しさに翻弄されて気づかないふりをしてました。

 

なんだか、生理がとても多くて、生理痛がひどい

真冬でも氷ばっかり食べたくなる。

すぐにソファに横になりたくなる。

 

そんなある日、母から検診に行くように強く勧められ、調べてもらったら、

「子宮筋腫」でした。

 

生理が多かったのは、筋腫のせいだったのか

 

でも手術で筋腫を取ったけど、一向に良くならない

ピルを処方されました。

 

その頃、知り合いのママ友が相次いでガンになります。

乳がんが2人、子宮頸がんが2人

いずれもみんな完治しています。

 

私も8年ぶりに人間ドックを受けてみることにしました。

 

 

子宮の病気もさらに調べてみると「子宮内膜異型増殖症」と診断されました。

 

放っておくと子宮体がんのリスクが高くなるとのこと

 

途方に暮れている時に、人間ドックの結果で、左胸に影があり、「要精密検査」という結果

 

そして、検査の結果、初期の乳がんが見つかりました。

 

 

私の乳がんは、女性ホルモンをエサに大きくなるタイプのもので、子宮の病気もそうだけど、

きっとホルモンバランスがおかしくなってたのだろうと思います。

また、精神的なストレスも色々ありました。

娘がいじめられてたり、職場環境に馴染めなかったりなども大きな要因だと思います。

 

 

当時は小学校の給食の調理員をしてました。

手術、入院で休むことになり、休職することに

しかし、その後復職が叶わずに退職

 

手術は無事に成功し、退院後は1カ月毎日放射線治療に通ってました。

それから、5年間、女性ホルモンを押さえるという事で、3か月に一度注射を打ちに通院してました。

でも女性ホルモンを押さえることで、生理も来なくなり、子宮の病気もなくなり、逆に体調が良くなりました。

 

ホルモン療法が終わった5年後も、引き続き経過観察で定期的に通い続け、

結局10年間病院にお世話になりました。

 

ガンは、10年経って初めて完治とされる病気

 

再発の恐怖と戦いながら、長かった10年間

治療にかかったお金も莫大な金額でした。

 

これを機に、身をもって健康のありがたさを身に染みて感じました。

 

 

料理を仕事にする!~起業を決意

乳がんの手術後も様々な料理関係の仕事に就きました。

 

でも人に雇われるのではなく、自分で自分の思ったようにやりたい

もっと多くの人に自分が作った料理を食べてもらいたい

 

どんどんそんな思いが強くなりました。

 

その頃、「奈良のママが仕事を作る会」という所に入っていて、1人起業しているママさん達とのつながりで、

親子の料理教室の講師でデビューさせてもらっていました。

そこからが、私の講師業の始まりです。

 

でも最初は、教室をやるというより、作った料理を提供することに力を入れていました。

出張シェフ、ケータリング、ワンディシェフ、イベント出店など

こちらが出向いて、料理を提供してました。

 

料理教室は親子から子供料理教室を自宅で教えるようになり、

 

そして、大人向けの教室も始めて、今では教室業だけをやっています。

起業してから今年で10年が経ちました。

これまで、こんなに長く続いた仕事はありません。

 

飽き性な私が、料理だけは、全然飽きることなく、どんどん作りたいもの、新しいものが出来てきて

毎日がワクワクしてます。

 

 

 

ここで、余談なんですが、

 

母方の実家、私の曽祖父は料理人でした。

料理旅館を営んでました。

 

昭和の良き時代、毎晩毎晩、宴会のお客さんで大繁盛

芸者さんもいてました。

私が小さい頃にはもう曽祖父は亡くなっていましたが、

親族で旅館は続けており、私も幼少期は、出番待ちの芸者さんに

火鉢を挟んで遊んでもらった記憶があります。

子供の頃は、その旅館が格好の遊び場でした。

 

よく母は、曽祖父の作ったあんこが何とも言えんほど美味しかった。

裏庭の鶏をさばいて、「かしわのすき焼き」を提供してたと話してくれます。

 

私の料理人のルーツは、きっとここにあるのだと思っています。

ちなみに私の名前は、曽祖父が考えてくれたそうです。

 

 

人生最大のピンチ~ 一大転機

人生一寸先は闇

まさかの出来事が起きてしまいます。

 

今から4年前、大変なことが起こりました。

 

自宅が火事になってしまったんです。

 

その日は朝から小雨が降る肌寒い3月でした。

 

私は出張レッスンの為、朝からレッスン会場へ

 

娘はこの日は仕事が休みの日で、前日から帰って来てなくて朝帰り

帰ってきてから、ストーブに火をつけて、そのままスマホをもってトイレにこもってました。

(娘はいつもトイレに行く時はスマホを持ってはいるので、中々出てこない)

 

ストーブの上には、昨晩甘酒を作った炊飯器が乗ったままでした。

 

そのままストーブに火がつくと、もちろん炊飯器が燃えてしまいます。

 

娘がトイレから出てきた時は、すでに炎が上がっていたそうです。

それで、すぐに外に飛び出して、119番通報

「他に家に誰かいませんか?」

ここで、娘が、もしかして兄ちゃんがいてるかも

 

そう、息子はまだ2階で寝てたんです。

慌てて、お兄ちゃんを呼びに行き、子供たち二人は無事だったんですが

 

私も連絡もらって、レッスンを切り上げて帰らせてもらい、着いた頃にはもう消火も終わっていました。

 

 

家の中は、想像を絶する姿に変わり果ててしまっていました。

パソコンもプリンターも姿かたちもなくなっていました。

 

(数年経って、近所の人から聞いたところ、消防車が道に迷って、到着がかなり遅れたという事が判明

本当だったら、少しのぼやで済んでいたらしい)

 

 

娘はショックで泣きじゃくっているし、私が置いていた炊飯器のせいだと、旦那には責められるし

 

それから、両方の実家にしばらく世話になることになりました。

 

突然、住む家がなくなる。

何もかもがなくなって

いきなり暗闇の洞穴に放り込まれた気分でした。

 

でもみんな無事だった。

それだけでも良しとしなければ

 

でも目が覚めたら、いつもと違う風景

火事の出来事が夢であったらと何度願ったことかわかりません。

 

神様は、何でこんな試練を与えるのだろうとずっと考えてました。

全ての出来事には理由があると思っているから

 

またその頃はコロナが流行り出したころ

3月に火事になって、5月に緊急事態宣言

 

仕事もなくなり、慣れない実家暮らし

そして、火事の後始末に追われる日々

 

そんな中、旦那から離婚の話が出ました。

 

結局火事の日から一緒に住むことはなく、話し合いのもと、離婚することにしました。

 

何となく、将来はそんなことになるような気はしてました。

それが火事がきっかけで早まっただけ

 

離婚の条件として、あの家を私の物にしてもらうことにしました。

それは

どうしてもあの家に帰りたい!

リフォームしてもう一度住みたい!

という強い思いがあったからです。

 

子供と共に一緒に成長を見守ってくれた家

建ててからちょうど20年目でした。

 

でもたくさんの業者さんに見積もりしてもらったけど、

結局無理でした。

 

私一人の力は非力すぎて、どうすることもできませんでした。

本当に暗闇の中をずっとさまよってました。

結局、あの家を手放して、賃貸マンションに住むという選択を取りました。

火事から半年が経ってました。

 

娘はすでに実家を出て、先に一人暮らしを始めていて、

 

息子はまだ学生だったので、卒業までの残り半年間は私と二人で暮らして、春に関東に就職が決まり出ていきました。

 

そして私は、50代後半にして、花の一人暮らしが始まりました。

 

火事になって、コロナになって、仕事ができなくなり

周りから勤めに出るようにいわれ続けましたが、そんな気はさらさらなく、

今の仕事を天職と思っているので、あの時、あきらめなくて本当に良かったと思っています。

 

今は、家族もそばにいなくなり、仕事のことだけ、自分のことだけ考えてたらいいので、

精神的にすごく楽です。

 

これが本来の私のあるべき姿なのだと思います。

神様はこうなるようにちょっと荒っぽかったけど、仕向けてくれたのかな

 

子供達とも程よい距離感を保つことで、イライラすることもなく、お互いに理解しあえてると思っています。

 

 

大親友の突然の死

私には小学校からの大親友が3人います。

 

高校も大学もみんな違ったけど、

結婚後も住むところもバラバラだけど、

いつも定期的に会っている友達

 

そんないつまでも4人の関係は変わることなく続くと思っていたけど、

ある日突然、本当に突然にお別れがやってきました。

本当にショックで、1年経った今もまだ全然悲しみは消えず・・・

 

幽霊でもいいから、もう一度会いに来て!

 

 

でもそんなつらい経験から、永遠に続くものはないって事を身に染みて思い知らされました。

 

私だって、明日どうなるか分からない

 

誰にだって永遠はなくて、だからこそ今を悔いなく生きなければ

 

あの時、ああすればよかったとかの後悔のないように生きたいと強く思うようになりました。

 

なので、私は今、自分が選んだ道をまっすぐに好き進んでいきたいと思います。

 

人生一寸先は闇ですから、

これからの人生にも何が待ち受けているかも知れません。

 

でもどんなことがあっても動じない強い心で、自分が信じた道を突き進んでいくしかないと思っています。

 

声を大にして言いたい

「また今度」「いつか今度」はないんです

 

これを読んでくださった方には、後悔しない生き方をしてほしい

 

 

波乱万丈なこれまでの人生

長い長いストーリーを最後まで読んでくださってありがとうございました。